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更新 2014/7/1 |
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アレン記念教会
【宗教法人バプテスト久慈教会】
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深きに住め、わが魂よ、いと深く われらが身ならず、わが体そはただ肉の住家 |
そこにわれ生くるのみ われにとりて尊きは、霊の生命ぞ いと正しくも真実に、われ神に頼れば わが魂はるかに越えゆくすべてのまがを いかなる悩もふれることなし まこと久遠の「我」に
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われ神の子なれば、われこたえん 日々の務に起るすべてに いと雄々しくも、いときさわやかに |
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【タマシン・アレン書】 |
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ア
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メ
ン |
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限
り
な
く
汝
の
も
の
な
れ
ば
な
り |
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国
と
力
と
栄
え
と
は |
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悪
よ
り
救
い
出
し
た
ま
え |
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わ
れ
ら
を
こ
こ
ろ
み
に
あ
わ
せ
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ゆ
る
し
た
ま
え |
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わ
れ
ら
の
罪
を
も |
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わ
れ
ら
が
ゆ
る
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ご
と
く |
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わ
れ
ら
に
罪
を
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か
す
も
の
を |
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今
日
も
あ
た
え
た
ま
え |
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わ
れ
ら
の
日
用
の
か
て
を |
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地
に
も
な
さ
せ
た
ま
え |
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み
こ
こ
ろ
の
天
に
な
る
ご
と
く |
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御
国
を
来
た
ら
せ
た
ま
え |
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願
わ
く
は
御
名
を
あ
が
め
さ
せ
た
ま
え |
|
天
に
ま
し
ま
す
わ
れ
ら
の
父
よ |
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主
の
祈
り |
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「いつくしみ深き」讃美歌 312番 |
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...集会ご案内... |
*聖日礼拝
*定例祈祷会
*キッズチャペル
*聖書のお話
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日曜(毎週) AM10:30〜12:00
日曜 第2週礼拝
日曜 第4週礼拝時 AM10:30〜11:30
随時教会にお電話ください
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ホール二階は図書館になっていて休みの日には近所の子供たちが遊びに訪れます
2011年12月19日 市民クリスマスコンサートが開かれました。 |
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2010/9/26、宣教師タマシン・アレン先生誕生120年記念チャペルにて
市民有志による記念ミニコンサートが開かれました。
童謡を歌う会、レクエルドス、ミラクル・プレイズ皆さんです |
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「ゆりヶ丘公園墓地」
記念碑の周りには教会墓地が設置されています。墓地には教徒でなくとも入る事が出来るそうです。敷地はかなり広いくいつでも募集しています。故タマシン・アレン先生の記念碑が建てられてます。 |
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■集会案内■ |
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・聖日礼拝 |
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日曜(毎週)AM10:30〜12:00 |
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・日曜学校 |
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日曜(毎週)AM09:15〜10:00 (小・中・高・青年の部) |
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・定例祈会 |
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日曜第3週 礼拝後 |
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・所在地 |
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久慈市長内町9-80-2 |
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・TEL.FAX |
: |
0194-59-3453 |
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【道順】
長内川に架かる長内橋袂から県道7号線(久慈岩泉線)へ進みます。橋から1kぐらいの距離で右上側の教会建物が見えるはずです。 |
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アレン国際短期大学とタマシン・アレン先生との私たちの久慈市 |
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昭和6年8月まだ外国人の
姿を見かけることもなかった久慈に、
一人のアメリカ人が引っ越して来ました。
彼女の名はタマシン・アレン。その日から
45年間久慈市民の心に希望という種子を蒔き続けたのです。彼女が生まれ育ったのは、後に久慈市姉妹都市になる米国・フランクリン市。初来日は大正4年、25の時でした。東京、仙台、盛岡と、ミッションスクールでの教育・教活動を終え一度は故郷に戻りますが、昭和4年に再び日本へこの年アレン女史は布教活動の
ため久慈市へと足を運びます。そこで目にしたものは、決して豊かとはいえない 人々の暮らし。初めて訪れた三陸海岸の小さな町は、 彼女に「移住」を決心させたのでした。久慈で 暮らし始めたアレン先生は、子供達の育に目を 向けました。久慈幼稚園の創設に続き、 ほまれ学園小学部・中学部。さらに
昭和45年4月には
アレン国際短期大学を創設。
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カリキュラムには、姉妹校のメリー・ハーデー・ベラー大学での4ヶ月間の語学研修が組み込まれるなど、国際色豊かな教育が実践されています。また、アレン先生の活動は教育の分野に止まらず、医療・福祉施設の充実にも力を尽くしました。昭和36年の三陸フェーン災害では被災者に施設を提供するなど、先生の博愛の魂は久慈市民の心に深く刻まれています。
アレン先生が蒔いた 種子は、 今もなお美しい花を咲かせています。それは国際性であり、創造性であり、未来に
向かって漕ぎ出す勇気でもありす。長内川を望む学び舎では、今日も子供たちの歓声が響き、学生たちの澄んだ眼差しが伸びやかに輝いています。
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タマシン・アレン女史愛用の約聖書
教会内には先生愛用した物が展示
されております
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久慈名誉市民 タマシン・アレン女史の生涯 (Tamahine Allen 1890〜1976) |
1890年(明治23年)9月30日、アメリカ合衆国インディアナ州フランクリン市で、トーマスアレンとローラ・アレンの次女として生まれる。フランクリン大学卒業後、1915年(大正4年)25歳の若さで、キリスト教バプテスト派遣婦人宣教師として来日し、東京・仙台・福島・遠野・盛岡の各地で、女学校教師として奉職する一方、自らは、各地に幼稚園を開設し、幼児教育にあたる。
昭和のはじめ、冷害凶作や三陸津波で被害を受けた岩手・九戸・下閉伊郡下を巡回慰問し、以後各地で託児所や夏期学校を開いて、幼児、児童、生徒の健全育成に尽力する。地域での奉仕活動を行う中で、久慈地方の乳児死亡率が全国でワースト3位に入ることを知り、日本赤十字社の協力を得て、乳母子の生活指導(保健活動)を行うとともに、幼児教育の必要性を痛感し、1938年(昭和13年)48歳の時盛岡から移転して、久慈幼稚園を開設した。その後間もなく日中戦争、太平洋戦争が起こり、キリスト教に対する取り締まりが強化される中、1944年(昭和19年)久慈教会を設立した。戦中は日本での苦痛な抑留生活を経て、アメリカへ強制帰国させられる。
帰国後、日本紹介のため全米各地を歴訪し、特にカリフォニア州のツルレークにおいて、日本人抑留者数万人の為に、弁護人・通訳となって献身的に奉仕した。
終戦後の1947年(昭和22年)再度来日、久慈地域での社会福祉活動を再会する。その活動は精力的に拡大されるとともに、多くの協力者を与えられ、昭和23年、農村青年の教育及び生活改善のための農民福音学校を開校し、同年7月地域医療の充実化を説き、久慈社会館付属診療所を開設して、24
時間体制で辺地無医村地域などの訪問医療と援助にあたった。1960年(昭和35年)のチリ地震津波被害者救済(久慈〜高田地方)活動は、われを忘れた献身的なものであった。
一方、教育分野では、昭和22年より久慈高等学校の英語教師として教鞭をとり、地域の英語教育に貢献し、自らは1952年(昭和27年)ほまれ学園を設立して理事長となった。同年ほまれ小学校を開校、定員10名のキリスト教の精神を取り入れた少人数の生きる力を育む教育を建学の理念とした。5年後の1957年(昭和32年)にほまれ中学校を開設し、幼・小・中の一貫した教育体制がつくられたが、しかし、それ以上の高等教育機関の設立も期待されるようになる。この間、1958年(昭和33年)勳五等瑞宝章を受章、1959年(昭和34年)フランクリン大学から文学博士の名誉学位を授与され、同年、久慈市の名誉市民の推挙を受けた。
1968年(昭和43年)には、明治100年を記念して勳四等瑞宝章を受章、その他多くの受賞や表彰を国内外を問わず受ける。1970年(昭和45年)には、日本の若者に国際化に即した教育を施すことを目指し念願の高等教育機関であるアレン短期大学を設立、初代学長に就任する。(学長講義は英語聖書)
聖書学者・哲学学者として世に知られ、アメリカの有名大学から主任教師に迎えたいという招へいの手紙を何度ももらいつつも、若き日に会得したキリストの生と死を志して、その生を最後の日まで、異国の地 久慈に注ぐことを決意し、久慈に骨を埋められた。
1976年(昭和51年)6月7日85歳9ヶ月の献身の生涯を終えられたアレン女史の死を悼み、久慈市ではアレン女史の誕生地フランクリン市に対して、弔電を発したことは有名である。 |
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2009/4/25画 |
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僕たちは忘れない アレン短期大学の心を |
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2010/5/28 久慈幼稚園児 |
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