|
|
|
|
ここが入り口です(案内版明記) |
|
|
|
|
|
|
|
案内板からの入り口です。久慈城を偲び手を合わせてから左へお進みください。右鳥居慈光寺側からも入れます。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
◆久慈城跡◆ |
|
標高85mの小山に築かれた山城跡地。現在はこれだけです。
以前遺跡発掘を行い建物の柱などが確認されたそうです。でも文献などは全て焼かれてしまい現在はほとんど解らない状態らしいです。今日の取材でも城が焼かれた、いや焼かれた証拠が無いなどの話が言われていました。久慈城は豊臣にだまされて焼き討ちされたと言う方もおります
久慈城は1591年、南部信直と九戸政美の争乱で九戸方のついたが、敗れたことで豊臣秀吉の命を受けた南部方が争乱の翌年までに取り壊された。
今日の取材でも土地所有者でのいきさつやら、仙台藩、九戸城、弘前城、十和田などの絡みの話をお聞きしました
私たちが知らない、もの凄い奥の深い久慈城話が伺われます
1973年、市史跡に指定されました
|
|
|
|
|
|
|
|
|
久慈城を囲みお堀が廻されていました。現在は慈光寺脇に面影が残されています。この他に慈光寺駐車場脇に現在はコンクリの水路ですが見ることができます。 |
|
|
|
|
|
|
久慈城は別名八日館、通称新町館ともよばれ、久慈川沿いに開けた平野を一望する標高80M、平野との比高約40mの男山を利用して構築した平山城で、城跡は現在も主郭部や三段構成の帯郭、豪跡、馬場跡等が良好な状態で残っており、中世山城の条件を備えた極めて重要な史跡である。
久慈城は、久慈氏の居城であったが、その築城年代は定かでない。
久慈氏12代久慈備前守信実が「居を久慈大川目一八日館と伝う一に構え」と記録されており、信実以前に既に城館があり、そこに居を構えたかもしれないし、あるいは信実によってはじめて久慈城が築かれたかもしらない。久慈氏は19代三百数十年にわたり久慈地方を治めたと伝えられているが、信実以前については諸説があり不明な点が多い。
天正19年(1591年)、18代久慈備前守直治は、九戸城主九戸政美と三戸城主南部信直との争乱の際、女婿19代久慈中務政則とともに九戸方の武将として参戦した。しかし、豊臣秀吉の命により信直の救援に赴いた豊臣秀次を総大将とする大軍の攻撃を受け、九戸城を舞台に善戦したものの浅野長政の謀略にあい、ついに九戸方は降伏開城するところとなる。久慈備前守直治、政則父子は九戸政美とともに捕らえられの身となり、栗原郡三迫(宮城県栗原郡栗駒町岩ヶ崎)に送られ処刑される。
九戸争乱の際久慈城は戦場とはならなかったが、久慈氏の嫡系が滅亡し城主を失った久慈城は、その後間もない天正20年(1592年)6月、豊臣秀吉の諸城破却命令によりとり壊され、姿を消す。(久慈市教育委員会書抜粋) |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
高台にある吾妻屋からでも、集落は見えません。右画像は内部からの集落方向です。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
・所在地
・JR久慈駅から |
:
: |
大川目町
5.2km |
|
|
|
【道順】
国道281号線大川目バイパスから大川目小学校通りに入ります。校門前を通りを農道伝いにそのまま進むと、右側に自動車修理工ホリカーさん交差点に差し掛かります。この交差点を真っ直ぐ目の前に「久慈城」案内板が見えます。駐車場が無いので、少し進み慈光寺さんの駐車場へ止めた方がいいでしょう。 |
|
|
|
|
|
|
◆久慈市文化財◆ |
|
|
|
|
城主。山所有者のせいさつ(屋号)さん。大川目の藤森さんです |
|
|
|
山城が建っていた場所で今は
記念塔で知らせています |
|
|
|
|
|
この坂を登ります |
|
|
|
吾妻屋奥にあるトイレです |
|
|
|
|
|
吾妻屋内の茅葺き屋根裏 |
|
|
|
現在、山口保育園そばで発掘作業が行われています。久慈城が取りつぶされた際、全ての建造物が文献等とともに焼かれこの箇所に瓦など焼却された物が埋められたと言われ、H15〜16年に掛けて発掘されました |
|
|
|
|
|
|
|
|